恍惚の人

date. 2008.1

父が介護センターに行く日なので、朝方は慌しいが、九時を回る頃にはお迎えのペルパーさんがやって来る。それと共に家の中が落ち着く。普段家の中にいるのが当たり前な父がいなくなると、一抹の静寂がよぎる。
それもそうだ、小学校一、二年生の児童がいなくなるわけだから。
父が若年アルツハイマー症と診断されてから、もう十年近くになろうとしている。早いうちに病院へ行って薬をのんだからか、初期の頃はあまり進まなかった症状も日を重ねることによって、歳相応の状態になってきた。最初の頃は−本当はいけない事なのだが−車の運転をしてもらったりしていた。ただし助手席にはナビゲーターが座って。車の運転まで取り上げてしまっては、何もすることがなくなり、可愛そうかと思ったりしたが、自然に、本当に自然に父は運転をしたいとはいわなくなった。
毎日暮らしているとわかる。症状が少しずつ進んでいくことを。もう一人では着替えもできないし、お風呂にも入れない。ひとりで外出なんてもってのほかだ。

父がまだ第二の人生で働いていた頃、僕は父の会社から一本の電話を受けた。ざっと言ってしまえば、「お父様はお家ではどのような生活をしていますか」というような内容だったと記憶している。
僕ははっとして、「もしかしたら、ご迷惑をかけているのではありませんか?」と、咄嗟に問いかけた。
「ええ、少し忘れっぽいようなので・・・」と電話の向こうで中年らしき女性が答える。
「実は、アルツハイマー病と診断を受けましたが、まだそんなに手を煩わせませんし、朝は普通に笑顔で出かけていくので、仕事は本当にできているのか思いつつも、見送っておりました。ご迷惑をかけてしまって申し訳ありません。申し訳ありません。」
僕は何度も何度もあやまった。あやまりながら涙が止まらなかった。
結局一週間後には父は恍惚の人となり、今まで身体は日常生活に浸かりながら、別の世界を生きている。はじめの頃は、どうしてこんな風になってしまったんだろうと、母の前で嗚咽しながら感情を抑えきれなくなった父の姿も見たことがある。

どうしちゃったんだろう、それは家族の言葉でもある。これから何年かわからないが、だんだん子供に返っていく父を僕は見守り続けるんだと心に決めている。
その息が絶えるまで。


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