毛虫の毒針

date. 2008.2

朝方、雪が舞っていた。何匹もの蜆蝶がひらひらと風に乗って飛んでいるようだ。冬の枯野には止まり木がいくつもあるが、蜆蝶は風にまかせて、ただたゆたっているだけだ。それもほんの一時間あまりで、いつの間にか一匹たりとも消えうせているのであった。

昨日の今日は真冬日という天気予報をくつがえし、部屋の障子を開けると陽光は、さんさんと降り注いでいる。窓越しに見える空は抜けるほど青い。中庭の積雪を溶かす光は乱反射して、目の前でハレーションを起こす。真白な光は、僕に昔の記憶を走馬灯のように思い出させる。反射的に背中を向けて、記憶の焦点が定まるのを回避する。光へ向いた背中はとても暖かい。昔のことは全てまぼろしの事だとでも言うように光は僕を抱いてくれる。

僕は以前雪がほとんど降らない東の街で暮らしていた。あの出来事がなかったら、今でも何も変わらずに過ごしていたに違いない。
彼は何故僕を信じてくれなかったのだろう。信じていない、という言葉の影に僕は囚われてしまった。もう去っていくしか道は残されていないと思った。影を追って僕は逃げるように去っていった。
どこにも行くところはなかったのに。僕を受け入れてくれる場所は本当は存在しなかったのに。だからそれからの半年間の記憶は僕にはない。
愛の言葉も半年間で針に姿を変えてしまった。良き方向へ向かうようにいろいろな角度からアプローチをしても、毛虫の毒にやられるかのように、体中はみみず腫れになってしまった。それでもまだ心は愛を失っていなかった。だから悟ったのだ、これ以上ここにいても何も生み出せないことを。

それから十年。僕は湖が凍る街に住んでいる。
僕は影を引きずっていて、凍った湖を見ずにはいられなくなる。その度に黒々と胎児の形をした膿を産み落とす。そして赤ん坊を抱くようにそっと抱きしめ、よしよしよくやった、もういいよ、と言って、砂のようにくずれていくハートの欠片を、凍った湖の上にそっと両手で手放す。


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