風にふかれて |
date. 2009.4 |
歳の瀬もあと一週間ほどという今年一番の寒い日、0時過ぎに彼からの携帯電話が鳴る。
「今何してる?」
「特になにも。なんだか眠れなくって。」
「これから山の方へドライブに行かないか?君にどうしても見せたいものがあるんだ。」
「ん・・・いいわ。でも三十分待って。」
「OK、迎えに行く。それから、毛布を一枚用意しておいてくれ。」
「毛布?わかったわ。じゃ、後でね。」
彼は私と同じ大学で、校舎の二階下の研究室にいる先輩だった。付き合うようになって三年は経っていたが、昼間は学生、夜や休日は働いている彼とどこかに出掛ける機会はあまりつくることができなかった。たまたま日曜日に彼の仕事が入っていないと、晴れていればお弁当を持って、近くのスキー場までのドライブをねだった。
家から車で三十分余り、シーズンオフのこのスキー場が私は大好きだった。いつ行っても涼しい風が高原を吹き抜けていた。夏になると県外からのラグビー部の合宿で、暫くの間は活気づくが、広大なゲレンデを持たないこのスキー場を知り利用しているのは、殆どが地元の人間だった。
クローバーやタンポポ、レンゲが咲いた緑の丘にシートを敷き、お弁当を広げ、高原というよりはいくつもの峰々を背に、彼にくっつき腕を組みながらおにぎりを食べる。人影は疎らだから、恥ずかしいことはなかった。例え人がいたところで、彼との間隔は変わりはしなかったろう。
梅漬けを入れたおにぎりを食べた後は、きまって彼は種をぴゅううと草の上に飛ばした。
「そんな風に捨てちゃだめ。」
「種は土に帰すものなんだよ。」
もっともな返事をする唇に私はすかさずキスをして言葉を消しさる。
たこウィンナーや兎リンゴを「俺は子供じゃないんだぞ」と言いながらも嬉しそうな顔をして食べてくれた。母親ゆずりの甘い卵焼きを「とても美味しい」と言ってくれた。その度にわたしは彼にキスをした。たぶん酸っぱくて甘いキスを。
飲み物は途中のコンビニでペットボトルの烏龍茶を買って来て回し飲みした。粗方お腹がいっぱいになると、彼は私をゆっくり抱きしめて、両手で優しく頬を抱えて長いキスをする。それが、ごちそうさまの挨拶だった。それから私の膝を枕に目を閉じて横になる。彼のまどろむ少し窶れた横顔を見つめて髪を撫でながら、私はいつも彼と一緒に高原の風の中にいた。
二人のまわりはゆったりと風が吹き抜けている。ハコベやペンペングサがそよそよと揺れている。彼と来られる唯一の場所はいつも時間がゆっくりとうとうと流れていた。
不意のデートの誘いを断ったことはない。彼が大好きだったから。
急いで外出できる服に着替え、髪を梳かしながら、暖かいココアを作る。ミルクにカカオの粉末を溶かして作る本格的なホットチョコレートは彼の好物だからだ。
はじめて彼が私の部屋に訪ねてきたのは、音もなく雪が降りしきる真冬の真夜中だった。私は高分子材料学のレポートを書き上げ、小腹が減った私はココアを作っていた。
ドアのノックとドア越しに「遅くにごめん。明かりがついていたから。」と静かな彼の声が聞こえた。先輩がこんな時間にどうしたんだろうと、おそるおそるドアを開けると、「遅くにごめんな、仕事の帰りなんだ。これ渡したくて。誕生日おめでとう。」と体半分だけ開いたドアの隙間から茶色の箱を差し出した。
思いがけない来訪と突然のプレゼントに戸惑い、きちんとお礼も云わぬまま開けた箱には、大好きなお菓子屋さんの紅玉ジャムの瓶が入っていた。シナモンと甘酸っぱい林檎の香りが、彼と私を包み込む。
「今ココア作っているんです。召し上がっていきませんか。」
「そう言ってくれるのなら、遠慮なく。」
彼は私の部屋でちょこんと所在なさげにストーブの前に座っていた。コートも着たままだった。
「砂糖はどうしますか?」と聞くと、彼は暫く私の顔を見つめた後、満面の笑みで目を細めてこう答えた。
「そうか、君も砂糖は入れないだね。実は僕ね、ココアが大好きなんだ。喫茶店で飲むこともあるけど砂糖なしにはなかなかお目にかかれないから。」
彼のコートを脱がせたのは私だった。二人で暖かくてほろ苦いココアを飲んだその時から、私は彼がたまらなく好きになったのだった。そして私達はこの夜から恋人同士になった。
出来上がったココアを携帯用ポットにいれ、毛布を用意し、口紅を引き終わった頃に彼の車のエンジン音が聞こえてきた。
それを合図に部屋の明かりを消し、ドアに鍵をかけ、彼のもとへ急ぐ。
荷物を抱えてマンションの階段を降りてきた私を見て、車のドアを開けてくれる。いつもの彼だ。
「さあて、出発!」
到着した場所はいつものスキー場よりもう少し深い山の上だった。山道に沿って車が十台くらい停まれるほどのちょっとした広場だった。
「外に出て、上を見てごらん。」
云われるがまま寒空の下に出て空を見上げると、そこは降るような星がこぼれて広がっていた。
「今日は新月って知ったから、晴れていたし、きっと星が見られると思ってね。」
「すごいすごい。」「こんなのはじめてよ。」
二人で一緒の毛布に包まって星を眺め続けた。誰でも知っているだろうカシオペアやオリオン座は数多ある星の一部だった。天の河がきららきららとたゆたっている。星空は漆黒の湖に煌く魚の鱗だった。
暖かいココアをすすりながら、いつまでもいつまでも眺めた。時間はゆっくりと流れていて、首の痛さもお尻の冷たさもさほど気にならなかった。冷たい風が頬を冷やす。
「星、流れないかなあ。」
「どうかな?魚みたいに口を開けていると、見ることが出来るって聞いたことあるよ。」
「魚がパクパク、パカンパクン」
同時に口の中に、まん丸の甘さが転がってきた。驚いて目はまん丸になったが、それは甘露飴だとすぐ気付く。
「星を飲み込んじゃうのかと思ったよ。もう、息が止まりそうだよ。」
「あはは、ごめんごめん。」いたずらっぽく笑いながら、彼も自分の口に飴玉を放り込んでいた。
「だめ、許さないんだから。」私は唇で彼の頬に触れる。甘い蜜のいっぱい入った林檎のような味がした。彼と私と星の湖が全世界だった。時間が止まることができるのなら、こんな夜空が広がっているに違いない。
ココアを飲んでキスをして星をみてキスをしてココアを飲んでキスをして星をみてキスをして、唇が離れる度、心からいとおしいと思った。何度も何度も繰り返した後、辺りの草木が目を覚ます頃には、飴玉みたいにとろけてしまった私を彼が抱えて車に乗せてくれた。
さあ、魔法からさめて。」
彼は私を部屋まで送った後の帰り道、本当の流れ星になって、夜空へと消えてしまった。
あれから私は星の数ほどの涙を流し、幾つか恋もした。
記憶の中には、若かった私と彼のあの頃の想い出は消えることなく、空の星の如くゆったりと瞬いている。
いつまでも、きっといつまでも。いつまでも風に吹かれて。
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